「目の前にいる相手の嫌なところは、自分の嫌なところ。」
それを認めるのは、なかなか簡単なことではないかもしれません。
それに、
私はあんな人と同じような頑固なところなんてない
私はあの人みたいに失礼なことはしない
と思うかもしれませんよね。
しかし、皆さんが、嫌な人だな、と思っているその人も、自分は相手にとって嫌なことをしている、などと、毛頭思っていないのです。(思っていたらしませんよね)
皆さんは、その人を、ひどいとか、ダメだ、と判断するかもしれませんが、当の本人は、それがひどいことだとか、ダメなことだと思っていないからこそ、そのような態度をしてしまっているのです。
人は誰も、相手にとってわざわざ嫌な存在になりたい、とは思いませんよね。
そうではなくて、誰もが、「相手から好かれたい、相手から愛されたい」と思っての行動なんですね。
それが、結果的に、皆さんにとっては、嫌なものになったり、ダメなものに見えてしまっている、ということなんです。
わざと嫌われよう、と思ってしてることってほとんどない私は思っています(たとえ、仮に嫌われようと思ってした行動でも、その根底には、誰かに愛されたいと思うからこそ、そのような態度になってしまっている、ということです)
ということは、私たちは、自分が気づいていないだけで、相手にとっては、嫌な行動、ダメな行動、というものを自分もしている可能性がある、ということになります。
それを教えてくれるのが、相手の姿なのです。
なぜ、まったく同じ人に対して、その人に何も思わない人と、頭にくる人がいるのでしょうか?
それは、その人に頭にくる要素があるわけじゃなくて、それに「反応」しているのは自分だからです。
例えば、動きの鈍い人が頭にくる、ということは、動きが鈍いのはダメだ、という脳内ルールをもっているという証です。
脳内ルールは、相手を裁くだけでなく、自分のことも同時に裁いています。
ということは、動きの鈍さを嫌っている場合、自分の動きの鈍さを、常に裁いている、ということになります。
これが、相手に文句を言いながら、実は自分自身に対する文句だ、ということなのです。
もし、あなたが自分の動きの鈍さを受け入れてジャッジしていなければ、相手の動きの鈍さを目にしても、何の反応もせず、素通りできてしまいます(そのうち、相手が鈍いかどうかも気づかないぐらいになります。それほど、相手の鈍さがまったく気にもならない、というこです)
そう考えますとね、頭に来る人、イライラさせる人、というのは、実は、自分で見えていない自分の姿に気づかせてくれる大切な人、ということになります。
相手に対して嫌だな、と思ったら、「今こそ、自分を直視するチャンスが来た!」と思って、相手のどんなところが嫌なのか、なぜそれに反応してしまうのか、自分の中に似たところはないか、じっくりご自分を見つめてみてください。
相手の嫌なところが自分の中にもあると認めることは、とても苦い薬を飲むようなものですが、その苦さを通り越してしまえば、驚くほどの気づきがあって、相手に対して感謝せずにはいられなくなるのです。
やはり、すべては愛ですね。