ツインレイの愛を生きる

愛の学びを通して、真実の愛を知りました。愛そのものとして生きましょう。奇跡は常に起きています。

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冬至は陽への出発点

今日は、冬至ですね。

 

 

冬至とは、「日短きこと至(きわま)る」という意味で、一年で夜が最も長い日です。

 

 

この、冬至は、古くは、新しい年の始点とされていたそうです。

 

 

これから、夏至の、最も日が長いという時期へ向けて、少しずつ、少しずつ、明るい時間が増えていきます。

 

 

 

陰極まりて陽に転ずという言葉があります。

 

 

 

これはつまり、暗闇が最高潮に達すると、それは光へと転換していく、ということです。

 

 

 

冬至は、かつて、生命の終わりを意味し、新しい命の再生復活の時と考えられていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母なる大地、大いなる宇宙。それらのエネルギーをダイレクトに受けやすい私たち女性は、この、冬至の時期にあたり、闇のような気持ちになった方が多いのではないでしょうか。

 

 

闇の只中にいる時は、確かに辛く苦しいものですが

 

 

それらは、古くから、新しい生命の始まり、新しい年の始まり、と考えられていたように、暗闇が極まれば、それらは、自ずと、陽の方向へと、転換されていきます。

 

 

 

厳しい冬の次には、必ず春がやってきます。

 

 

寒い寒い冬でも、その大地の中では、美しい花の種が、静かに開花を待っています。

 

 

 

宇宙の法則では、絶望の時こそが、最も幸いな時、と言われています。それはなぜならば、絶望の時ほど、己の変容を最大に期待できる時、と言われているからです。

 

 

 

人間の生命が誕生する時、母は最も大きな痛みを経験します。産みの苦しみです。

 

 

しかし、この、最大の苦しみが、新たなものを誕生させるのです。

 

 

 

そんな時こそ、とことん自分を信じ、自分を愛し、自分を甘やかし、自分を抱きしめ

 

 

宇宙のエネルギーを体いっぱいに浴びながら

 

 

 

愛そのもの、光そのものとして、進んでまいりましょう!

 

 

 

 

冬至、つまり、陽に転じる今日は、身の回りのお掃除をして、不要なものを感謝して手放すことが良い過ごし方のようです。

 

 

 

私も、今日は大掃除をして過ごしたいと思います。

 

 

 

 

愛を求める人生からの転換です

これまでの人生は、

 

 

愛を求めるばかりの人生でした。

 

 

 

 

親からもらえなかった愛。

 

 

 

誰にも愛されていないと思っていた。

一番大切にしてもらいたかった親から

見捨てられるといつもいつも思っていた。

 

 

 

愛情飢餓感から

いつも、他の誰かからの愛を求めずにはいられなかった。

 

 

 

でも、それは、仕方なかったよね。

 

 

 

愛は生きていく上で、何よりも必要なもの。

 

 

 

その愛が、私には与えられないと、思い込まされていたのだから。

 

 

 

他の人からの愛を求めるのは、ごくごく自然の行為だったんだ。

 

 

 

だから、彼に依存し、執着し、期待して、愛を欲しがった私。

 

 

 

 

そうしないと、生きていけないと思っていただけだったんだ。

 

 

 

 

そんな私がツインに出会い、彼からの拒絶という絶望を経て、

 

 

 

やっとやっとつかんだ、真実の愛。

 

 

 

 

それは、本当は、最初から目の前にあったものなのに、こんなにも巧妙に隠されていた。

 

 

 

なぜならば、真の愛を知るためには、その対極であることを知らねばならないからです。

 

 

 

 

その対極とは、

 

 

 

 

「愛がないような状況」

 

 

 

です。

 

 

 

それを経験して初めて、わたしたち人間は、真実の愛がなんなのかを、身をもって理解できるようになります。

 

 

 

 

だから、この地球は、経験の星、と言われています。

 

 

 

何事も、リアルな経験を通すことで、腑に落ちるものなのです。

 

 

 

 

 

 

この地球の仕組みが、本当によく理解できるようになったこの12月です。

 

 

 

これまでの、愛を求める人生からの転換です。

 

 

 

 

これからは、愛を求める人生ではなく、

 

 

 

 

愛そのものの私が、愛そのものとして生きる、そんな人生です。

 

 

 

 

 

真実の愛は、心の闇の中で待っていてくれました。

 

 

 

 

そんなことは誰も教えてくれなかったけれど、これは本当のこと。

 

 

 

真の愛は、

 

 

自分の中にあるドロドロとした暗闇、まるでヘドロのような醜い部分、目を伏せたい自分の悪の部分、

 

 

 

そんな見たくない部分にこそ、存在しています。

 

 

 

 

 

そこから逃げずに、直視することの勇気。

 

 

 

 

それを与えてくれたのが、彼だったのですね。。。

 

 

 

 

あなたの光も闇も、あなた自身なのです。

 

 

 

 

あなたが光と闇の両者と出会い、みとめ、抱きしめ、愛すること。

 

 

 

 

それが、真の統合。

泣き叫ぶ子供

私は、今日、風邪をひいて、近くのクリニックに行きました。

 

 

診察が終わって、処置室で予防注射を打ってもらおうとした時に、隣に3歳ぐらいの小さな子供がいました。

 

 

その子は、これからの注射が嫌で、大声をあげて泣いていたのですね。

 

 

 

注射はいやだ!

腕に触るな!

怖いことしないで!

帰りたい!

 

 

泣き喚いていたので、とても可哀想な気持ちにはなりましたけれど、

 

 

その横で、私は、その子供が、言いたいことを全部言って、なりふり構わずに自分の欲求をぶちまけている姿に、なんだか涙が出ました。。。

 

 

 

こんな風に、言いたいことを言えたことって、私はあるんだろうか。

 

 

泣き叫ぶほど、嫌だとかやめてとか、言ったこと、あっただろうか。

 

 

子供の頃、こんな風に言えなかったなぁ。。。

 

 

物心ついた時には、もう周りの人に迷惑かけないように、自分の気持ちを押し殺していたなぁ。。。

 

 

その子供、すごいなぁ。。。

 

 

 

なんだか、色んな気持ちが入り混じり、その子供がすごいなと思い、うるっとしました。

 

 

 

相手が困るほど迷惑かけたって、それが本音の本音なのであれば、心から満足できる。

 

 

その迷惑によって、喧嘩したり言い争いになるかもしれないけれど、言わないよりは前進している。

 

 

 

私は、そんなことを思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いつもオープンでいたいですね(*^^*)

 

真実を生きる

おはようございます。hanabiです。

 

 

東北で大きな地震がありましたね。このような天災は、生命の奇跡と、日々の日常がどれほど貴重なものなのかを教えてくれます。東北の皆様、どうぞお気をつけくださいませ。皆様のご無事を心からお祈りしております。

 

 

 

今日は、私の、今の状況を書きたいと思います。

 

 

かつては、恐ればかりの私でした。しかも、そのことに気付かずに、無意識のうちに恐れをベースとした生き方をしていました。そして、そんな生き方が当然とすら思っていました。

 

 

彼には執着し、依存し、期待し、2人がぎくしゃくするのは相手が悪いと思い、彼が私を愛しているのだから私の思い通りのことをしてくれるのは普通のことだと信じて疑いませんでした。

 

 

そして、彼に拒絶されてからは、自己否定の嵐。自分を責めまくって本当に苦しかったです。

 

 

そんな私ですが、この2016年になって、まるで赤ちゃんの頃の自分から人生をやり直している気持ちです。

 

 

そうなんです、私は、一旦、完全に「ゼロ」になれたのです。

 

 

ゼロの私、というのは、ジャッジする物差しをすべて手放した私です。

 

 

善悪を決めない私。判断しない私。つまり、プラスもマイナスもない、ゼロポイントの私です。

 

 

私は完全に産まれかわった。。。そんな深い深い実感です。

 

 

すべてのジャッジを手放すと、目の前には、大変心穏やかな世界が待っていてくれました。

 

 

〇〇は良くて、〇〇はダメ。〇〇は価値があって〇〇は価値がない。〇〇は幸せで〇〇は不幸せ。

 

 

そんな、二極の判断をいちいちしない、ということなんです。

 

 

そうしますと、物事の受け止め方が完全に変わるんですね。

 

 

 

今の私の心の中は、

 

 

 

 

 

 

 

目の前に起きる現実のすべてに意味がある。

 

 

すべてが貴重な「体験」であり、私たちはそれをするためにこの地球に産まれてきた。

 

 

私しか私という女性の人生は送ることができない。だから、私の人生はまるごと宇宙からのギフトである。

 

 

悲しみも苦しみも絶望も切なさも、それらの経験は愛を知るため。なぜならば、宇宙には愛しか存在していないから。

 

 

 

 

という、深い安堵に満たされています。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、彼に対しての想い。

 

 

嫌われてもいい。

 

 

拒絶されてもいい。

 

 

問題が起きてもいい。

 

 

会えなくてもいい。

 

 

私のすべてがバレてもいい。

 

 

そして、

 

 

愛されてもいいし愛されなくてもいい。

 

 

もう、どっちでも大丈夫なんです。

 

 

なぜならば、

 

 

 

どちらにしろ、私の価値は一切変わりがないですし、私は私のすべてを満たせている。

 

 

 

彼がどのような態度であれ、どこにいても誰といても何をしていても、私の愛には変わりがない。

 

 

 

 

 

実は、かつては、このブログが彼にバレたらどうしようと、びくびくした気持ちで書いていたんです    笑

 

 

 

でも、もし、このブログが彼にバレて、それで愛されなくなったのであれば、嫌われたのであれば、それはもう仕方のないことです。(彼の個人情報は特定できるようには記述しておりません。また、バレる可能性は極めて低いと思います)

 

 

 

その彼の気持ちを尊重します。

 

 

私は嘘偽りない思いをここに書いていますので、例えば私の想いが重いと言われようが、私の気持ちが大きすぎると言われようが

 

 

 

それが私の真実なのですから、もう、隠したって仕方のないことです。

 

 

隠して偽っても、彼に何かがバレないとしてもその先にあるのは、いつまでも隠し続ける私です。

 

 

 

もう、すべてを見せられる。なぜならば、それが、私そのものだから。

 

 

 

 

もう、何かを隠して生きることなんて嫌です。

 

 

隠しているということは、そちら側の自分はダメだと、自分で宣言しているようなものですから。

 

 

 

 

真実を生きていきたい。

 

 

そう思えるようになったのも、彼のお陰であるので

 

 

 

今の私は、やはり彼に新たなる生命を与えていただいたと思っています。

 

 

 

私はすべてを見せます。

 

 

私そのものをそのまま生きていたいです。

 

 

だから、会えても会えなくても、どっちでもいいんです(*^^*) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 読んでくださっているあなたへ。

いつも真実のあなたでいてください。

 

 

シンプルなこと2

人の行動の根底にあるその動機は、実は2つしかないんですよね。

 

 

1つは、欠けた愛を求める叫び。

 

 

もう1つは、溢れでる愛を表現するもの。

 

 

このどちらかなんです、その行動の根底にあるものは。

 

 

 

つまり、愛が恐れ。どちらかしかない。

 

 

 

 

相手を傷つけるように見える行動、

 

 

 

例えば怒り、悪口、無視、拒絶、無言、批判など

 

 

それは、そうすることで自分を守る、つまり、本当は愛が欲しいという叫びです。

 

 

 

愛に満たされていれば、たとえ自分にとって都合の悪いことやうまくいかないことがあっても、対話、話し合い、理解しあう、違いを認め合う、相手の立場を理解する、理由を伝える、などの行動になりますから

 

 

 

そう考えますと、相手の行動を認め、ゆるし、むしろ愛おしくさえなります

 

 

 

 

そしてやはり、まずは相手ではなく、自分自身、そのような行動をとったとき、もしくはとりたくなったとき、

 

 

 

それは、相手の中に原因があるのではなくて、自分の心の内側にある、愛の叫びをじっくりと聞いてあげることです

 

 

 

相手に原因があるのではなく、原因は自分の心の内側にしかありません

 

 

 

相手は、自分の心の内側を見せてくれている貴重な存在

 

 

 

私は、何が不安なのか?

私は、何を恐れているのか?

私は、何をビクビクしているのか?

私は、何を怖がっているのか?

 

 

 

よく考えてみて、それに気付くことがまずは大切です

 

 

 

それが、相手が原因だと思っていたことが

 

 

 

実は、過去に親に見捨てられたこと。

 

 

 

過去に親に否定されたこと。

過去に親に笑われたこと。

過去に親に理解されなかったこと。

 

 

 

それが原因だったりします。

 

 

 

もしくは、過去の大失敗や大失恋、恥をかいたこと、後悔していることなど。

 

 

 

 

その、心の中の傷を、ひとつひとつ見つけ出して、丁寧に丁寧に愛していくこと。

 

 

 

自分の中の、恐れを、ひとつひとつ、大丈夫だよって言ってあげて、愛に変えていく。それが、自分を、身体の芯から変えていきます。

 

 

 

だから、ご自分の傷を、痛みを、切なさを、みてみぬふりしないでくださいね。それらは、彼にではなく、あなた自身に癒されることをずっと待っているのですから(*^^*)

 

シンプルなこと

心の中って、複雑なようでいて、実はとってもシンプルなんだな、って最近思います。

 

 

何かを外側に「求める」と

 

 

幸せは訪れない。

 

 

なぜならば、世界のすべては自分の心の内側の投影なのだから、外側だけを変えることはできない。

 

 

 

求めることを、やめること。

 

 

 

それだけで、一挙に幸せの扉が開く。

 

 

 

求めるのではなく、自分の心の内側を、見つめる。

 

 

 

 

そして、自分の心の内側とは、自分で満たせるのだ、自分一人で愛せるのだと知ると、

 

 

 

求める、という行為が

 

 

 

純粋に、

 

 

 

与える

 

 

 

に変わる。

 

 

 

心が、求める、から、与える、に変容した時に

 

 

 

そこで、不幸や苦しみは終わる。

 

 

 

もともと満たされている私たちの魂は

 

 

 

欠けているものなど一つもなく

 

 

 

求める必要は何もなくて

 

 

 

ただ、愛に欠けているという思い込みが

 

 

 

愛を求めてきてしまっただけのこと。

 

 

 

もし、本当にツインという存在がこの世にいるのなら、

 

 

その、魂と魂が離れている苦しみや辛さとは

 

 

 

心の辛さとは別物と私は思っています。

 

 

 

まさに、魂の痛み、というような感じで。

 

 

 

だから、魂の痛みはあってもいいし、それは不幸ではないこと。

 

 

 

そうではない、心の乾き、愛の渇望、欠けた部分を他者で満たそうとすること。

 

 

 

それは、ひとつひとつ、自分で癒していくことができるから、大丈夫。

 

 

 

 

 

シンプルに、自分は自分で満たし、溢れでる愛を誰かに与える人生。

 

 

 

いや、与えるというよりも、共有する、ですね。

 

 

 

誰もが、愛そのものなのですから(*^^*)  

私は私という女性を愛し抜く

今日、しみじみと思ったことを書きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あぁ、私という女性の人生は、この、私しか送れないのだなぁ。

 

 

 

あぁ、私という女性の人生をすべて味わえるのは、この私だけなんだ。

 

 

 

間違いや失敗や

 

 

 

過去の後悔や、あんなことしなければよかったということが、山程あるけれど

 

 

 

それも、私、という女性を生きられる私こそが、私だけが、その全てをうけとめて、抱きしめてあげることができる

 

 

 

その辛さも

その痛みも

その悲しみも

その後悔も

 

 

 

私は、なんだかんだいって、必死に乗り越え、時には後悔の苦しみの渦からでられなくなりそうになり、それでも、こうして生きてきた

 

 

 

弱いようで、強い私。

強いようで、弱い私。

 

 

 

強さも弱さも、どちらも私の大切な大切な一部分。

 

 

 

ツインに愛されない。

 

 

ツインに会えない。

 

 

 

その事実が、どれほど、私を傷つけてきたか。

 

 

その、痛みや辛さから、かつては目をそらしてきたけれど、そんな私とはもうさよならした。

 

 

痛みや辛さも、愛せる私になった。

 

 

私は、覚悟した。

 

 

どんなに辛い過去も、どんなに許しがたいあの行動も、

 

 

 

たった1人、私だけは愛してあげる、愛し抜く、その覚悟です。

 

 

ツインに拒絶されても、私だけは私を愛し抜く。

 

 

これからも、何かに失敗したり、傷ついたり、間違えてしまったり、恥をかくこともあるでしょう。

 

 

 

それでも、私だけは、私だけをすべて愛する覚悟を決めました。

 

 

 

いろんなことがあるけれど

 

 

 

私は、私で本当に良かった。

 

 

 

 

 

私として、一度きりのこの人生を、生きることができて本当に良かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私が私で、本当に良かった。